中1・1学期末  父のコメント   担任のコメント


 7月8日 突 然 の 発 熱
 ↓ 入院する迄の経過が、1枚の紙片に書き残されていた。
▲7月8日 木曜夜、熱が意外に高く、金・土と学校を休む。近所の医者はへんとうせんとのこと。
▲7月12日 月曜、KO病院へ行き石田先生にみてもらう。やはりへんとうせんということで、翌日から給食を食べないようにして学校に通う。この1週間、無事学校へ通えたが、
▲7月17日 土曜日の昼、いつもより少し熱が高かった。
▲7月18日 日曜日、休み。10日たったが熱は下がらない。
▲7月19日 月曜日、運命の日。KO病院に行きまだ熱が下がらない事を言う。検査をするという事で入院が決まってしまう。しかし、部屋がない。水曜には必ず空くということで月曜はそのまま家に帰る。夕方、電話が来る。部屋が決まり、ついに明日(7月20日)、病院行きとなる。その時まで、いろいろおいしいものを食べる。特にメロンはうまかった。

 7月20日(火)  再び 国立小児病院へ
 タクシーで病院に向かう。通いなれた道が真っ暗に見える。病院にはずい分と早く着いたようだ。すぐ病室には行かず、レントゲンなどをとった。僕の病室があるのは4かいで、西(WEST)。個室で、見晴らしとしては木が1本見える。

 天じょうは音を吸い込む材質からできているが、これは泣き声を吸い込むのか? 部屋は両わきが大きいガラスばりで、ずっと向こうまでがよく見える。洗面所は隣のヤツと一緒に使うようになっている。そして、ベットは僕の体には小さかった。


 7月30日(金)  新しいノートに・・・

小さいころからよく日記を書いていた伏見君でした。日記を書くという習慣が、これほど自然に身についた子どもはいませんでした。病床に在って、絶えず孤独と向き合っていて、(もうひとりの自分)や(他日の自己)との対話がつき進んでいったのです。

上の小文は、数ある闘病日記のうちの最後のものとなった日記帳の扉に書きつけてあったものです。

一見、おどけた風でいながら 悲痛さがにじみ出ています。“伏見友孝と言う名の付いたボク”という表現など、自己を主体と客体に抽出した鋭いシグサとしか言いようがありません。

この日記は、死の二日前まで毎日高熱とたたかいながら続けられました。以下紙面のゆるす範囲で抄録いたします。

 7月30日(金)  七分がゆ
 今日の昼、どういうわけか食べ物がノドを通ると痛い。しかたがないので、牛乳を一本飲む。井原先生が、うまい具合にその時来たのでいろいろそのことを話し、かい中電燈でのぞいてもらったら、ちょうど、のみこんだ物が通るところがアレているという事。それからどうなったかつて? ぼくのごはんは、七分がゆという”水ましがゆ”になってしまったのだ。

 夕食は、七分がゆに、「グラタン」がついたのでよく食べられた。「グラタン」は何といってもすばらしくおいしかった。(飲みこむ方法:流しこむようにアゴを前につき出してのむ。のむとき力を入れないこと。入れるとイタイ!)


 7月31日(土)  悪いニュース 良いニュース
 今日はどうしたわけか熱が夜になっても出ない。そのかわり、いつもよりとてもあつい。しかし、夜になっても6度台(7度より上でない)ということはうれしい。今日、井原先生は休みで、知らない女の先生がきた。下半身の○○○○のできものも小さくなっている。食べ物はマズイ。が、今ボクは向上しつつある。

 5時、オレはこっそりろう下にでて病棟から抜け出し、オドリ場にある電話をかけた。そのときのメモは、このページにつけておく。

  <悪いニュース>
自衛隊機と旅客機が空中衝突。150人あまりの人は絶望とみられている。しかし、自衛隊機の人はパラシュートで生き残る。ナンタルコトカ。
  <良いニュース>
アポロ15号、4度目の月着陸に成功。一時は失敗かと思われたが・・・。(午前7時16分30秒)

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